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   青春18キップで廻る 
  山陰山陽じぐざぐ鉄道の旅
 
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芸備線(443D)は12:36に新見駅を出発、13:56備後落合着で乗換となるが、保守合理化路線の為どうなるかは分からない。途中、備中神代駅までは伯備線といっしょで、ここから南に大きく反れ神代川に沿って南下する。神代町の中心部もまた駅から離れている。平地がどんどん遠ざかり徐々に高度を上げていくのが分かる。列車はエンジンを開けっ放しでかつゆっくりと勾配を登っていく。野馳駅を過ぎると、備中・備後国境の山を越えるトンネルを抜け、広島県に入る。

東城は比較的大きな町だ。陰陽連絡交通の要衝であるとともに、たたら製鉄で栄え、戦国期からの城下町。江戸時代も広島藩の家老浅野家が明治まで支配した。今なお古い商家が数多く残り、3軒の酒蔵もある。一度は泊まってみたいと思う、文化財クラスの旅館もある町だ。
東城をでると、成羽川に沿って大きく北を周回するように秘境ムードあふれる山岳地帯へと分け入っていく。JR西日本の保守合理化路線であり谷間を縫うように非常にトロトロと走る。このあたりほど奥に入り込んでくるとさすが豪雪地帯になってくる。道後山をピークに今度は急な下りが続く。いやになるような時速15キロで慎重に勾配を下っていく。そして谷間が少し開けてくると備後落合に到着した。芸備線は名前のごとく広島と新見を結ぶが、この備後落合そしてこのあとの三次で運行系統が分かれている。備後落合は木次線の乗換駅でもある。

芸備線は広島ー備中神代間159.1kmを結び44駅からなる中国山地西部の山間を走るローカル線である。備後落合で木次線、備中神代から先の新見まで乗り入れ、伯備線や姫新線に接続する。が、新見から備後落合までは超のつく閑散路線。東城〜庄原間、庄原〜三次間で通勤通学輸送があり、もっとも需要が多いのは広島〜三次間の都市間輸送である。よって大きく分けて新見ー備後落合ー三次ー広島で運行系統が分かれている。もともとは大正4年に広島ー三次間で開通した私鉄の芸備鉄道がベースとなり、一方、国によって伯備線とつなげる路線が建設され、芸備鉄道の買収国有化によって一本に繋がった。


 

芸備線が備後落合に到着すると正面からすぐに次に乗る予定の芸備線(361D)がやってきた。同じく単両のキハ120系だ。さらに、なんと木次線も右手から合流して、2つ併走してやってきたのだ。こちらも単両の120系だ。ちなみに、この備後落合駅における芸備線の乗り継ぎでこんなにベストな接続は日に何度もあるわけではない。多くは、周囲に民家もほとんどない無人駅で何時間も待つことになるのだ。

三次行きの列車は、新見から乗ってきた列車の向かい2番線到着し、2両の芸備線が並んだ。とはいってもすぐに出発するわけでない。やはり40分あまり待つのだ。実にのんびりしている。スローな旅らしくなってきた。備後落合駅は駅舎自体はどうってことのないプレハブ駅舎だが、有名な秘境駅なので、みんなカメラを持って写真を撮りまくり、子供づれの家族は雪合戦にいそしむ。広い構内に多くの引き込み線、そして長いホームに陰陽連絡の要衝だった往時の面影を見ることができるが、今は無人駅のうえ駅前には民家が数軒しか残っていないさみしい場所に変わり果てていた。時代の栄枯盛衰の凄まじさをまじまじと感じた。

そんな場所なので40分は長かった。みな20分ほどで車内に移動し出発をまった。乗ってきた(443D)が先に新見へ引き返していった。待つこと14:36、(361D)は備後落合駅を出発した。
列車は再び狭い谷間の急勾配を時速15キロでゆっくりと、ゆっくりと、ケーブルカー並みの速度で進んでいく。比婆山駅の周囲には集落があった。比婆山は信仰の山だが、冬はスキー場で賑わう。もっとも電車を利用して訪れるスキー客はおそらくいないであろう事は駅周辺を見れば一目瞭然だが、駅舎はなかなか趣のある建物だった。
比婆山をすぎると少し開けて町が現れる。

備後西城は東城とともに中世に始まる城下町で、古くはたたら製鉄で栄えた町だが、東城よりはこぢんまりとしている。山側の西城川に沿って形成されている地区が旧市街で、僅かだが古い面影の町並みが残っている。ここから一気に速度を上げるかと思いきや、引き続き15キロ制限区間が続いた。西城川に沿って山間を縫うように走り、久子駅をすぎると盆地が開けてきた。勾配の線形も良くなり列車の速度は一気に上がる。直線区間は実に時速60キロで軽快に駆ける。体感的には「幹線の電車」が時速120キロで走るのに匹敵する。

庄原は広島県の中国山地における主要都市である。その備後庄原駅は2面3線のホームを持つものの、駅舎は平屋で「都市の玄関口」のイメージはまるで無い。広島へは高速バスが走り、完全に客を奪われている。学生の通学くらいしか利用がないものと思われる。もっとも駅自体が町の中心には無いのだから仕方がない。
この備後庄原駅で本日初の列車交換。多くの列車が、もう一つの主要都市である三次との間で往復する。

つぎの備後三日市駅のある三日市地区はかつての宿場町で庄原の中心だった場所で、坂に沿って往時を偲ばせる町並みが残る。芸備線は南下を始め、左手に中国自動車道が近づいてくる。塩町は本日この後に乗る福塩線の分岐駅だが実に何もない。駅前に民家はあるが、田んぼの中の駅だ。こんな駅で長時間待つのもいやだったし、おそらく混み合う事はないであろうが、確実に席を確保したかったので始発の三次まで進むことにした。

福塩線は名前のとおり、福山と塩町間78.0kmを結ぶ地方交通線で、起点駅はこの塩町なのだが、当然というか列車は三次駅まで乗り入れている。この駅で降りる人も数名いた。もちろん地元の乗降客では無い、あきらかに旅人。鉄ちゃんだ。おそらく福塩線に乗るのだろう。芸備線はこの塩町からV字に北上、八次駅のあたりはすでに三次の近郊市街で、やがて三次駅の3番線に到着した。時刻は16時少し前で、日没まであと30分といったところか。改札口のある1番線には広島行きの芸備線が止まっていた。さすがに広島県の中心都市と山間部の主要都市を結ぶだけあり、2両編成のキハ47系だった。旧型車両だがたくましさ、安心感がある。

三次は、中国山地の主要都市の中でも最も大きな町だ。江戸期は広島藩の支藩、三次藩5万石の城下町らしく、駅舎は鉄筋コンクリートで、もちろん有人。駅周辺にもホテルやビルが建っている。三次藩の存続期間は短く、その後は石州街道の宿場町・在郷町として発展し、旧市街は「広島の小京都」と呼ばれているが古い建物はそれほど残されていない。ちなみに三次駅の駅がある場所は旧十日町で、旧城下町の三芳町は馬洗川・西城川の西側で、玄関駅としては三江線の尾関山駅が最寄りである。三次は名前のとおり、馬洗川・西城川そして江の川の3つの河川が合流する町で、まさに天然の要害に城下町が形成されたのだ。


さて、広島行きの芸備線が出発した後、同じホームに福塩線が入線してきた。特に期待はしていなかったが、やはりキハ120系だった。しかし2両編成だ。と、思ったらホームに着くなり、後ろ1両を切り離してしまった。
先ほども触れたが福塩線は名前のとおり、福山と塩町間78.0kmを結ぶ地方交通線で駅数は27ある。元もとは福山〜府中を結ぶ両備軽便鉄道が前身でその後買収国有化された。福塩線は大きく2つの系統に分かれており、山間の集落や小都市を縫うように結ぶ非電化区間と福山ー府中間の電化された都市路線である。
あまり一般的では無いが、非電化の区間は福塩北線と呼ばれ、この区間の運転本数は極めて少ない。一方、福塩南線と称される電化区間とのギャップが激しくとても1つの名称でくくるには無理があるような気がする。もっとも芸備線も三次〜広島区間は都市間路線として別物に近いのだが。

(1730D)は16:18に三次駅を出発、芸備線と同じ線路を走り、塩町で右に分かれて南下していく。車内は比較的混雑していた。時間が時間だから地元客が多い。塩町駅では案の定、先ほど芸備線から降りた乗客が寒風の中で待っていた。山間部を走る福塩線は宿場町時代の町並みが残る、三良坂吉舎上下など思い出深い町をジグザグに繋いでいく。しかし残念ながら日は落ちて何も見えない。またの機会に再乗することにした。

府中駅で待っていた(270M)は115系4両編成で今は稀少となった湘南カラーと呼ばれるオレンジと緑のツートン車両だ。JR西日本の車両としては逆に珍しく、まさかここで見るとは思いもよらなかった。府中を出た列車は軽快に走り、小気味よく停車し、そして再び加速していく。旧型だけれども今日初めての「電車」は新鮮で快適だ。府中は名前のとおり、古代備後国の国府が置かれていたとされる町で、近世は石州街道の宿場町として栄えた町だ。続く神辺横尾なども旧山陽道の宿場町で往時の面影が残されている。こうして知ったる町から町を走って終点の福山に到着した。福山は岡山(備中国)と広島(備後国)国境の要衝の町であり、藩政時代は11万石の城下町だった。そして今も山陽新幹線が止まる要衝らしい大きなターミナル駅である。
ここから本日の宿である三原までは山陽本線で7駅である。途中には有名な尾道も挟むが真っ暗で何も分からないだろう。
山陽本線(379M)は本日最速の時速100キロで駆け抜け、今日一日の列車の旅を締めくくった。



 
 
Page1■ 津山線・吉備線で岡山を駆ける
page2■ 伯備線・2つの小さな城下町
Page3■ 芸備線・福塩線で広島縦断
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