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   青春18キップパスで廻る 
  九州ぐるり鉄道の旅
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九州入り初日の朝は小倉駅前の繁華街の中にあるカプセルホテルで目覚めた。余裕をもって早起きし、朝風呂に浸かってから20kg以上にもなる荷物を背負って駅へ向かう。
まだ真っ暗な小倉駅周辺。駅ビルのどまんかにぽっかり穴が空いており、モノレールの線路?が駅ビルの真っ正面に突っ込まれている。東京モノレールの浜松町駅もビルの中層部に乗り入れているが、こちらは裏からこっそり。
駅ビル正面玄関のど真ん中にモノレールが「突入」する風景は特異なものであるが、このモノレールが小倉駅に直結するまでは、さまざまな利害関係の調整に長い年月がかかったらしい。

小倉は大都市である。しかし真新しい駅ビルを始め駅周辺の風景にこれといった特徴は無い。これは小倉だけにとどまらず、全国各地で町々で言えることなのだが。
実際、今日の自分が東京から2000km以上離れた遙か九州の地に立っているという実感が今ひとつ湧かないことに若干の虚脱感のようなものを感じる。それでもこの小倉駅の建造物はかろうじて個性を主張していると言えなくもない。いずれにしても、一刻も早くこの大都市から九州山地の奥へと立ち去りたい気持ちでいっぱいである。

さて、九州を南下する路線は九州の西海岸を縫って鹿児島へ至る鹿児島本線と、東海岸を縫って宮崎へ抜ける日豊本線がある。双方の交通量や運行形態は山陽・山陰本線のそれに似て大きく違うものの、いずれも全線電化され優等列車も行き交う「本線」である。(鹿児島本線の八代ー川内間は九州新幹線の開業によって分離され、第3セクター「肥薩おれんじ鉄道」となってしまった為に、在来線では分断されている。)

これらのルートは鉄道が出来る以前からそれぞれ、薩摩街道、日向街道と呼ばれた古来からの道に沿っており、現在も国道3号線、国道10号線に引き継がれている。ゆえに・・・いずれも九州の大都市部やコンビナート群を貫いて走るため、ローカルムードを得ることはできないものと思われる。

そこで目に付けたのが今から乗る「日田彦山線」である。鹿児島本線と日豊本線を結んだちょうど中間部の山岳地帯を抜けるローカル線で、「電化」もされていない。
なにより路線名が良い。「日田」は江戸時代に西国郡代の代官所が置かれた天領の町、「彦山」は「英彦山」古くからの信仰の山である。

日田彦山線の始発(929D)は小倉駅の3番線ホームに待っていた。車両はキハ147系1000番台2両編成。クリーム色にブルー帯のオーソドックスな国鉄時代製のワンマン気動車。出発まで15ほど時間がある。始発といっても7:02発とずいぶん遅い時間である。ホームの立ち食いそば店は営業しており、客も多い。
匂いにつられて店のメニューを見ると「小倉うどん」なるものがある。昼食は摂らない予定だったが、ご当地メニューを食するのも旅の醍醐味である。ものは「肉うどん」に生卵やらいろいろ五目風に具材が入ったもので、値段も結構したが朝から満足感が高まった。

日田彦山線はエンジンを唸らせ、定刻通りに小倉駅を出発した。駅を出ると大きく左にカーブしながら小倉の町を抜けていく。このキハ147系は見た目はキハ40系だが、エンジンが高出力に改造された車両である。
しばらく車窓にビル群、そして近郊市街の風景が続いて城野駅に着いた。城野駅は小倉市街のエッジで日豊本線との分岐駅。日田彦山線は小倉まで乗り入れているが、正式な起点はこの城野から夜明までの68.7kmで、駅数は23駅である。この日田彦山線をはじめ今は第3セクターとなった路線や私鉄など、北九州の鉄道は、石炭輸送の為に張り巡らされた民間の鉄道網がそれであった。ゆえに、やがて国産石炭の時代が終焉を迎えると、その多くは、目的を失い姿を消していったのだ。かろうじて旅客路線として残されたものも、赤字を抱えて廃止されたり、第3セクターに分離されていった。

この日田彦山線もまた石炭や石灰石を運ぶために敷設された。前身は小倉鉄道と豊州鉄道および同社を合併した九州鉄道である。両私鉄は太平洋戦争のころに戦時国有化され、国よって整備延伸されて1本に繋がり、今の姿になった。かつては北九州と大分県内陸の都市・日田を結ぶ動脈で優等列車も走っていたが、現在は田川後藤寺駅で運転系統が分かれて、地域輸送路線となり、全線を通して走る列車は日に数本しかない。そして大半は小倉市圏の通勤通学がメインのようで、田川後藤寺駅以南は完全なローカル線である。

石田駅を過ぎると田畑の勢力が逆転し、郊外の風景に変わっていく。石原町駅で列車交換。この駅は唯一セメント輸送の為にJR貨物が携わる駅であるらしい。
呼野駅は平尾台のセメントの町。カルスト山でセメント石灰の産地であり、大きく削られた山が異様な姿をさらしているが、この地域は早くから石炭に変わってセメント生産に転換して知られており、沿線にはセメント関連の工場群が多く見られる。かつてはスイッチバックの駅でもあったらしい。
採銅所駅で列車交換の為10分近く停車。なかなか趣のある駅だが、名前の通りかつて千年続いた銅山があった駅である。
香春(かわら)駅は難読だがこの町もセメントで栄えた町。私個人の話しだが、この香春は母の田舎であり物心付く以前は何度か来たことがあった。田川伊田駅で列車交換の為に5分待ち。かつては石炭鉄道網の要衝であり、現在は平成筑豊鉄道と接続する駅。



 
田川後藤寺駅で運転手交替。日田彦山線の運行分岐駅である。次の池尻までは平野部が続いたが、徐々に勾配がつきはじめ期待が高まる。目の前に待ち受ける山塊。かつて数多くの貨物支線が分岐していた豊前川崎駅。

西添田駅を経て添田駅で列車交換。この路線が戦時中に国によって延伸される以前は西添田駅が「添田駅」だったとか。一方この添田駅はかつて「彦山口駅」であった。この駅でJR九州が開発した新型車両・真黄色のキハ125系と遭遇。単両のワンマン車両で「レールバス」に近い。昨日まで山陰・山陽のローカル線で嫌と言うほど乗り続けてきた新潟トランシス製がベースのキハ120系の兄弟でJR九州バージョンだ。各地で「レールバス」の異名で呼ばれるシリーズであるが、JR九州のキハ125系は車体が他の同系列車に比べて長く、重厚なデザインに斬新なカラーリングでレールバスと呼ぶには一線を引いている感じがする。

歓遊舎ひこさん駅は英彦山への玄関口っぽい名の駅だが、真新しいコンクリート1面の質素な駅。参詣の玄関口には見えない。2008年に地域振興プロジェクトによって新設された駅で、自動車の「道の駅」を併設している。
次の彦山駅が昔からの英彦山の玄関口であった。

英彦山(ひこさん)は、福岡県と大分県またがる標高1,200mの霊山で、山形県の羽黒山・奈良県の熊野大峰山
(とともに「日本三大修験山」に数えられ、今も宿坊を始め往時をしのぶ史跡が残されている。かつては山伏の修験道場として古くから武術にも力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁していた。現在は英彦山神宮・通称彦山権現とも呼ばれるが、明治の神仏分離により修験道が廃止され、天台山伏の本山であった霊山寺を分離して英彦山神社となった。

次の筑前岩屋駅はなかなか立派な駅舎であるが、どうやら消防団の倉庫を兼ねて建てられたもので無人駅であるらしい。それでも駅舎すらない「停車場」よりはずっといい。
ここから先はいいよ利用客が少ない山岳ローカル線となるが、次の大行司駅が唯一の列車交換駅である。
棚田が勾配のある地形を物語りやがて棚田の向きが変わり、分水嶺を越えた事がわかる。
大行寺駅は高台にあり、眼下に町場が形成されている。ここまで登ってくるのが大変そうだ。平野部に向けて扇状に平野が広がっていくのが分かる。宝珠山、大鶴、今山を経ていよいよ久大本線に合流して夜明駅。

線路の規格が良くなったのか、あいからわずのS字カーブが連続するが、それでも列車は時速70キロ。直線部では90キロで軽快に駆け抜ける。気持ちがいい。夜明駅はなかなか狙ったような今風の駅名だが、地名から名付けられたものである。古くは焼畑開墾地であることから「夜焼」と書かれていたが、後に「夜明」に改名された。

光岡は難読駅名で「てるおか」と呼ぶ。そしていよいよ終点の日田に到着。2番線ホームに入っていく。1番線ホームにはJR九州の新型気動車キハ200系が停まっていた。真っ赤なボディーが斬新かつ新鮮に感じる。
 
 
Page1■ 九州の初日は日田彦山線から
page2■ あこがれの特急「ゆふいんの森」
Page3■ 日豊本線でひたすら南下・宮崎へ
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