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  忠海
ただのうみ
 平家に由来する歴史をもつ瀬戸内海の要港
 広島県竹原市忠海中町

 構成:商家・町家土蔵 ■ 駐車場:なし
 
 

三原市街と竹原市街の丁度中間に位置する忠海もまた、東に接する三原市幸崎町能地と共に古い歴史をもつ瀬戸内海航路における重要な港町の一つでした。
忠海という地名は、鎌倉時代に平忠盛がこの沖合で海賊を討伐した功績により、陸地部分を忠海、沖合に浮かぶ島(大久野島か?)を盛村として拝領した事に由来するといいます。平忠盛は平清盛の父で、平氏で初めて昇殿を許され、平氏繁栄の礎を築いた人物として知られています。
以後忠海は、港町として町場が形成され、瀬戸内海における海運業により多くの豪商を輩出。町には酒造業をはじめ・塩商・味噌醤油商や木綿、煙草などを商家が軒を連ねました。忠海の商人は上方や瀬戸内地域をはじめ九州、尾張、さらには越後や出羽とも交易を行いその富を拡大してきました。
江戸時代には三次藩・広島藩の外港として御蔵や炭蔵などが置かれ、藩主の船乗場も整備されていくと共に、藩主導の殖産や保護政策が行われ港は繁栄していきます。
明治以降は鉄道の開通によって、港町の機能は急速に衰退していく一方で、軍需関連企業の進出をはじめ、太平洋戦争時には沖に浮かぶ大久野島が後に毒ガス兵器工場の島としてその名を歴史に刻む事になります。

現在の忠海は竹原市と三原市どちらの経済圏に属しているのかは分かりませんが、近郊ベッドタウンにように町は拡大しています。JR呉線忠海駅前に位置する中心市街は忠海中町と忠海東町からなりますが、この内忠海中町の駅前商店街中心した地区に古い伝統的な町家からなる家並みが残されていました。