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  佐敷
さしき
 薩摩街道の要衝として栄えた中世からの城下町
 熊本県葦北郡芦北町佐敷

 構成:商家・土蔵 ■ 駐車場:なし(佐敷城址には有り)
 
 
八代海に面し、鹿児島県と接する熊本県最南部の地域「葦北郡」。その郡名を町名にした葦北町は古くからこの地域の政治・経済の中心地として栄えた町。
佐敷という地名は、古い伝承に由来し、この地を訪れた弘法大師が地面に挿した木の枝が根を張ったことから「指木」が生まれたとあり、その後佐色・佐志城を経て佐敷の字になったとされています。
相良氏700年の城下町である人吉から最も海に近い港町である事も、地図を見れば一目瞭然。なにかあるでのはと思いましたが町並み通の間だでは知られた町でした。
佐敷の町は佐敷川の河口に開け、水運だけでなく、薩摩街道の難所である佐敷太郎峠の登り口にも位置していたことからも、峠を控えた旅人で賑う宿場町であった事が想像できます。「佐敷」の名は延喜式にもその名が見える、古来からの交通の要衝であったようで、南北朝時代には軍事的要衝として佐敷城が築かれ、江戸時代に破却されたものの、近年復元された佐敷城がJR鹿児島本線佐敷駅東側にある山頂から町を見下ろしています。この佐敷城が見下ろす葦北町の中心市街には古い町並みは見られません。当時の中心地はここから少し内陸に入った、山の裏側にあったのです。

佐敷の町が本格的に発展しはじめたのは、戦国時代に八代へ勢力範囲を広げた人吉の相良氏が拠点を人吉から八代に移し、2つの城下町のちょうど中間に位置していた佐敷が重要拠点として整備された事に始まります。
関ヶ原の戦い後、相良氏は再び人吉のみにかろうじて安堵され、変わって佐敷は肥後の国主大名となった加藤家熊本藩の支城となり城代が派遣される事になります。しかしその後、佐敷城は元和元年の一国一城令により破却される事になります。
加藤家改易後、肥後国主となった細川家熊本藩の時代に佐敷御番所が設置された事からも政治・行政の中心地であり続けます。
江戸期の佐敷は薩摩街道と球磨往還の追分けにして、佐敷川の河港町として繁栄。肥後・薩摩・球磨の諸産物の交易地として発展し、宿場町の宿泊記録では1日に最大で利用客984人、馬 114頭という賑わいぶりが記されています。
当然参勤交代を行う諸大名もこの町を利用し、熊本藩や薩摩藩の本陣、人吉藩の御仮屋も置かれていました。
現在古い町並みへ向けた景観整備が行われている佐敷のメインストリートには熊本藩の旧本陣を初め白壁土蔵造りの家並みが復元されていると共に、佐敷川対岸の向町には薩摩藩本陣「さつま屋」も文化財として整備保存されています。

 
 
佐敷川沿いに建つ旧薩摩藩本陣「さつま屋」