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  熊本 新町・古町 
くまもと
 加藤清正が築いた城下町・細川家熊本藩54万石
 熊本県熊本市新町・魚屋町・万町・西唐人町

 構成:商家・町家 ■ 駐車場:なし

新町にある「肥後の諸毒消丸」の吉田松花堂

 
古代「火の国」と呼ばれた肥後は、長い群雄割拠の時代を経て天正15年、豊臣秀吉の九州仕置きによって新政権下に組み込まれ、佐々成政が戦後処理の為に封じられます。しかし国人領主の抵抗が激しく、佐々成政は改易のうえ切腹します。
そして同年、加藤清正と小西行長が入り、肥後を分割支配しますが、関ヶ原の戦いで西軍の中心となった小西氏は打たれ、加藤清正の熊本藩52万石が成立します。熊本は当初「隈本」と書かれていましたが、この時から熊本に改められました。
築城の名手と謳われた加藤清正は、慶長12年(1607年)に名城・熊本城を完成させ、同時に城下町を整備します。しかしその後加藤清正は急死し、子の忠広の時代に加藤家は改易されてしまいます。代わって前国小倉藩より細川忠利が54万石で入封し、以後12代続いて明治を向かえました。
近世熊本の歴史の中で加藤清正の時代は僅かしかありませんが、熊本の基礎を築いた清正は「 清正公(せいしょこさん)」として今も親しまれています。

熊本は明治10年の西南の役と太平洋戦争の空襲で焼け野原となりましたが、熊本城の南に位置する町人町の「新町・古町」は戦火を逃れ、今も古い街並みが所々に残されています。新町は中世城下町時代からの町人町でしたが、戦国時代の戦火によって焼失し、細川氏の時代に再興され「新町」と呼ばれました。一方古町と呼ばれる地区も歴史の古い町人町ですが、明治から昭和に至るまで合併・編入が行われず、江戸期以来の町名が数多く残されています。それらを総称して「古町」と呼ぶので、古町という町の名は存在しません。

これらに町に残る伝統的な商家は、黒漆喰の重厚な建物が多く、幕末から明治にかけて建てれたものと思います。中でも新町にある「吉田松花堂」の屋敷と商家の重厚な佇まいは170年近く続く薬屋の歴史を如実に物語っています。
「吉田松花堂」の創業は江戸末期の文政年間(1840)ごろと言われ、佐賀鍋島藩の御典医でシーボルトの弟子だった初代吉田順碩が、シーボルト事件後に熊本に流れて来て諸毒消丸を創製、発売したのが始まりと言われます。現在は7代目で、歴代当主は代々「吉田順碩」を襲名しているとか。

(古町)西唐人町には連続した町並みが残る
熊本市の酒蔵          
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