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  赤穂
あこう
 赤穂浪士の故郷・赤穂藩森家2万石の城下町
 兵庫県赤穂市加里屋

 構成:商家・町家・武家屋敷 ■ 駐車場:なし
 
 

忠臣蔵の主人公、赤穂浪士の城下町として全国に知れ渡る赤穂市。

江戸時代の初めに姫路藩主池田輝政がこの地を領有し、五男池田政綱が赤穂郡3万5千石を分知され成立します。赤穂池田家は嗣子が無く改易となりますが、弟の池田輝興が赤穂藩を継ぐことを許され播磨平福から入封します。しかし輝興は突如乱心して妻子・侍女を斬り改易されてしまいます。

日本三水道の一つとされる赤穂水道はこの池田氏の時代に整備されました。赤穂の城下町は千種川のデルタであるため、掘り井戸には海水が湧き飲用に適さず、雨量も少なく水不足に悩まされていました。赤穂水道は加里屋北7kmの地点で取水し、町の入口で礫と砂・炭によって浄化された後、陶管や木管によって各戸へ給水されました。赤穂水道は昭和の時代まで実に約300年以上の長きにわたって赤穂人々の暮らしを支えてきました。

赤穂城が現在の城跡のような規模になるのは、正保2年(1645) 常陸笠間から浅野長直が5万3000石でこの地に入封してからのことで、13年もの歳月をかけて旧赤穂城を拡張整備させます。しかし浅野長直の孫である浅野長矩が有名な江戸城中での刃傷事件を起こし、赤穂浅野家は断絶します。
赤穂の製塩が本格的になったのは浅野氏の時代からで、塩の生産は赤穂藩の財政を支えると共に、龍野の醤油業の発達にも大きく関わりました。

宝永3年(1706)備中西江原から森長継が2万石で入封し、以後森家11代、170年間の支配で明治を迎えます。
森家は織田信長と共に本能寺で殉じた森蘭丸の家筋で、秀吉や家康に仕えて、美作18万石を得ますが、五代衆利の乱心で改易になります。
幸いに名誉ある森家の家柄を考慮し、森長継に備中西江原に2万石を与え家名存続が許されました。

赤穂城下は家臣屋敷が立ち並ぶ武家町の上仮屋と、町人町と寺町からなる加里屋が発達、以後町人町は徐々に拡大していきます。
旧赤穂城の城跡には大石内蔵助の長屋門残が遺構として残り、町人町である加里屋には、加里屋郵便局のある加里屋南周辺と浅野家の菩提寺として建てられた花岳寺周辺に伝統的な塗籠造りの商家や町家が残されています。

赤穂藩の歴史のなかで浅野家の治世はわずか50年ばかりでしたが、赤穂の町は浅生家一色でした。