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美保関

みほぜき

国引き神話が残る出雲最大の商港だった町

島根県松江市美保関町美保関 【旧・八束郡美保関町2005年合併】

 


出雲に古くから伝わる古代神話の1つに「国引き神話」があります。 ある日のこと八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)は、出雲国を見渡して、「なんと狭い国だ。小さく造り過ぎたから足らないところを継ぎ足してやれ」と、大胆にも朝鮮半島の一部を引っ張って来ます。これが現在の日御碕から平田までの一帯とか。しかしまだ足りないので、今度は高志の国(現在の北陸地方から新潟・越乃国)から佐伎(さき)国、良波(よなみ)国、都都(つつ)の岬の一部を同じように引っ張ってきたと言われる、あまりに壮大な「国造り」の話です。



そして高志の国・都都岬から引っ張ってきた半島が三穂碕(みほのさき)、つまりは現在の美保関という事です。また、神話の中で大国主命と高志の国のヌナカワヒメとの間に生まれた姫が三保津姫命といい、三穂碕の地名はこの三保津姫命に由来すると言います。 朝鮮半島や北陸地域からの国引き物語は、この地が古来から朝鮮や北陸と交易があった事をあらわしています。 さらにこの地は中世より隠岐への玄関口でもあり、 元弘の乱で敗北した後醍醐天皇もこの美保関から隠岐へ配流されています。



出雲国最大の商港だった美保関には大陸や日本海沿岸と交易を行う多くの商船が出入りしていた事から、それに対する関税が設けられていました。戦国期にはこの権益をめぐて度々争奪戦が繰り広げられています。




江戸時代には松江藩の管理下のもと繁栄しますが、享保2年(1717)外国船の威嚇入港により藩は動揺、幕府からも外国船を撃破すべしとの令が出され、美保関の要塞化が行われていくのですが、現在は、そんな過去の歴史騒動など知るよしも無いほど小さくのどかな港町です。



美保神社の門前集落には北前船で栄えた時代の名残を見ることができます。 観光名所として整備されている青石畳通りには旧船問屋の屋敷などが残されています。通りに敷き詰められた青石畳は江戸中期のもので、美保関港に寄港する北前船に積荷を運ぶ大八車の為に固い石畳が造られました。

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