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鷹峰
たかみね
 光悦が築いた芸術村と京の北の玄関口
 京都府京都市北区鷹峯
商家・町家型古民家・土蔵  店舗・施設P  地下鉄烏山線・北大路駅からバス
 
 

京都市街の最北端、位置で言えば金閣寺の北側に鷹峰という町があります。京都市街を縦断する千本通りも北の終わりに差しかかると普通の幅の道になります。山に向かって伸びるその道の先には伝統的な商家の街並みが現れます。町の突き当たりにある光悦町と光悦寺。鷹峰という町は初めて聞いたのですが、光悦という名は心当たりがあります。あまり造詣は深くないのですが、光悦の名はいろいろな本で見たことがあります。骨董の世界でも良く聞きます。(ちなみに骨董についても良く知りません)

本阿弥光悦は
工芸家、書家、画家、製作者(プロデューサー)あらゆる芸術に関与している日本のダ・ヴィンチとも言われており、さらに書の世界でも近衛信尹、松花堂昭乗と共に
「寛永の三筆」の1人に数えられています。生家の本阿弥家は室町時代から刀剣を鑑定してきた名家で、光悦は幼い時から家業を通して、あらゆる工芸に対する高い見識眼を育んでいました。公家を始め、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と交流があり加賀の前田家は芸術活動の支援者とも言われています。
1615年、57歳の光悦の人生に大きな転機が訪れます。大坂夏の陣の後、古田織部が豊臣方に通じていたとして自害させられます。織部は光悦の茶の湯の師であり、織部模様の陶芸作品は良く知られています。

この時光悦は、徳川家康から洛北鷹ヶ峰に約9万坪の広大な土地を与えられます。政治的な諸説はあるものの、この東京ドーム6個分の新天地に芸術家や職人を集めた鷹ヶ峰光悦町を築きあげました。金工、陶工、蒔絵師、画家、そして筆屋、紙屋、織物屋からなる約60棟の町家からなる光悦町。さらに、このころから光悦は茶碗造りに力を入れていきます。ロクロを使用せず手とヘラで整えた手びねりという独特の作風。ここで、日本の陶芸史上発の行為が行われます。光悦が茶碗の箱に自分の署名を入れたのです。

現在陶器で国宝に指定されているのは2つだけ。その1つが光悦の銘『不二山』。光悦は陶芸作品を雑貨ではなく芸術品に高めたのです。ちなみに光悦は日常生活品も数多く手がけています。

話しは街並みにもどって、この道を先に行くと美山、名田庄と険しい山中を抜けて日本海の港町小浜へ辿り着きます。この道は周山街道といい別名「鯖街道」とも呼ばれていました。京と若狭を結ぶ鯖街道三筋の一つです。現在の周山街道は宇多野から北上する国道162号線ですが、このルートは明治以降に変更されたもの。
鷹峰は日本海側の物産が山を越えて運ばれてくる京の玄関口、今で言えば中央市場か問屋町で、それは北前船が大阪に直接乗り入れるまで続きました。