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喜連
きれ
 摂津・河内の境界に位置する中高野街道沿いの古い町並み
 大阪府大阪市平野区喜連
町家・土蔵  なし  大阪市営地下鉄谷町線・喜連爪破駅
 
 

戦国時代から近世にかけて商都して栄えた平野区平野本町から南へ、ジグザグに大和川まで伸びるなにがしかの旧道らしき道がある。その道が通る「喜連」という地名にも惹かれて訪れてみました。

私が喜連という地名で連想するのは、栃木県にあった足利家5000石の城下町(陣屋町)の喜連川(現在のさくら市)ですが、あちらは「きつれ」と読むのに対して、平野区の喜連は「きれ」と読みます。足利家の喜連川が「狐川」に由来するのに対し、こちらの喜連という地名は、古代朝鮮半島から渡来した技術者集団が住んだ場所である「伎人の郷(くれのさと)」から転訛したものといわれています。

当時の「伎人郷」は現在の喜連地区とは別の場所にあったと言われていますが、その後中世から江戸期を経て、明治、大正と詳しい資料が残されていない為、正確な地誌は不明な点が多いのですが、初期の「伎人郷」は、奈良時代における坂上廣野麻呂の平野地域の開発や平安遷都などによって衰退し、住民は現在の場所である低湿地帯へと移住を始めたのだと言われています。

またこの地は古くから摂津国と河内国の境界で、時代ごとにその境界が変遷している事もあって、境界線に位置するこの小さな村の扱いが、なおざりにされていた面もあります。

さて、冒頭で少しふれた平野本町を起点に、喜連を縦貫する旧道らしき道は、 高野山へ至る高野街道の一つ、「中高野街道」でした。中高野街道は平野を起点に南下し、大和川を渡って、狭山で下高野街道に合流、さらに河内長野で堺からの西高野街道と、京からの東高野街道に合流して紀伊国の高野山へと至ります。

喜連はこの中高野街道を挟んで、2つの村に分かれていますが、周囲を堀で囲まれた環濠集落としては一体であるという、特殊な形態をしていました。

喜連は市営団地として区画整理され、中高層のマンションが建ち並ぶ地区となっていますが、旧中高野街道沿いには、江戸期から明治期にかけて建てられた貴重な旧家の建物が数多く残されていました。

 
 
江戸後期に建てられた建物が多く残されている