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  水戸田
みとだ
 幕府巡検上使が宿泊する上使街道の宿場町
 富山県射水郡大門町水戸田

 構成:伝統様式古民家 ■ 駐車場:なし
 
 
大門町の南東端に位置する水戸田は、古代北陸道時代から江戸期の北国街道、上使街道に至る街道集落・宿場町でした。

水戸田の住民は、もともとは別の場所の村民でしたが、大火によって村が全焼。現在に至る北陸往還筋に新たな集落が形成されたのが、戦国期ごろだと言われています。
全焼した旧村跡にただ一つ神社のみが残されていた為に、当初は焼ノ宮とも称されていました。周辺3か村の協力と火災の歴史から「水」にあやかった名を求めた事から三戸田・水戸田の地名が生まれたと言われています。

水戸田が街村の形態をとる、現在の主要地方道・富山戸出小矢部線は、古代官道「北陸道」よりも古く、「北陸往来」と呼ばれた、越中を最短で横断する街道でした。後に官道北陸道の「南道」となりますが、官道の敗退以降も越中の主要街道であり続けます。江戸期になると高岡城の築城により高岡経由の新道「北国街道」が整備されますが、その後富山藩の成立により富山城が築城されると、その城下町を迂回する為に新しい北国街道のルートが整備され、水戸田は完全に取り残されます。
しかし、越中を最短で抜けるこの街道は中田往来(中田通)と呼ばれて存続します。
さらにこの街道は、将軍の代替わりの際に必ず行われる、巡見上使による藩内視察団が利用した事から上使街道とも呼ばれていました。
水戸田には幕府巡検上使の御宿が置かれていました。御宿には上使が泊まる「上宿」と家来が泊まる「下宿」はあり、参勤交代の大名とその家来が宿泊する「本陣・脇本陣」のそれに相当するものが置かれていました。

現在の水戸田の姿は、旧街道に面した街村の形態をとっていますが、家々の連続性は無く、広い余白をもって並んでします。通りに対しては妻側を向けた家と平側を向けた町家や旅籠のような建物が混在しています。妻側を向けた建物は比較的大きく、おそらく、かつての「上宿・下宿」ではなかったのか、また隣接する寺院もまた臨時の宿泊施設になったのではないかと推測します。