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  清野町
きよのまち
 三国街道沿いに残る土蔵街集落
 群馬県前橋市清野町

 構成:土蔵・民家 ■ 駐車場:なし
 
 

三国街道は佐渡往還とも呼ばれ、大名の参勤交代のほか幕府の重要な財政基盤であり佐渡奉行が管理する佐渡の金・銀の輸送路でもありました。
三国街道は、中山道高崎から分岐し現在の県道25号線がほぼ踏襲する形で、
金古宿・渋川宿と北上していきます。この途中金古宿、現在の群馬町金古を過ぎて接する前橋市清野町に重厚な土蔵がつらなる街道集落が今も残ります。
清野町は江戸時代には野良犬村といいました。その後明治22年近隣の池端村・上青梨子村・青梨子村・野良犬村の4ヶ村が合併して清里村となり、昭和30年に前橋市に編入されるに至り、旧村名を継承した大字名が町名となりました。この際さすがに「野良犬町」はまずいと思ったのか、あえて清里村野良犬を略して清野町となりました。野良犬の地名は失われましたが、この清里地区の八幡神社では毎年10月に、400年の歴史を誇る伝承「野良犬の獅子舞」が奉納されています。この獅子舞は市の重要無形文化財にもなっています。

野良犬村は慶長年間に行われた三国街道の整備に伴い、この地に移住してきた村で街道沿いに短冊形の集落を形成し、渋川宿の助郷を務めました。町並みの中心となる土蔵と屋敷は株式会社「虎屋」の木暮家住宅で、虎屋は慶応年間(1865~68) にすでにその名がある上州商人です。
清野町は街道の両側に集落が形成されていますが、土蔵街は街道の東側にしか建っていません。街道に沿って南北に並んだ蔵に対して主屋は直交する形でL字型に配置されています。この配置は街道の西側でも同様なために、蔵は街道の東側にしかないのです。おそらく榛名山から吹き下ろす季節風対策なのではないかと思われます。


江戸時代から続く「虎屋」木暮家邸