一路一会古い町並みと集落・北関東>群馬北牧

  北牧
きたもく
 吾妻川の河港として栄えた三国街道の小さな宿場町
 群馬県北群馬郡子持村北牧 【群馬県渋川市北牧】2006年合併

 構成:土蔵・古民家 ■ 駐車場:なし
 
 

渋川市から吾妻川を渡り、子持村から関東有数の温泉地である草津に向けて伸びる道国道353号線はかつての草津街道。現在の三国街道である国道17号線から分かれて暫く走ると、左手に一瞬小さな古い家並みが現れます。

現在、その一部が保存されているこの集落は、かつて三国街道の宿場町・北牧(きたもく)宿として賑わった町でした。家並みの中央に残る水路が往時を偲ばせます。
北牧は中郷村方面への真田道、草津への草津道、越後への三国街道が交錯しており、中世から宿駅が設けられていたと言われ、江戸時代の初期には川越の為の小休憩所が設けられていましたが、後に正式な宿場町として認められます。
三国街道は越後の大名や佐渡・新潟奉行が行き来するため、吾妻川の対岸には杢ヶ橋(もくがばし)関所が設けられ、旅人を厳しく取り締まりました。

その関所からそれぞれ南牧と北牧の地名が生まれます。北牧は吾妻川の河岸から搬送される荷物の集散地としても栄え、醸造業なども行われていたと言われます。名主・問屋・本陣などは河原・鍛谷戸(かじかいと)にあり、本陣兼問屋は山崎八郎左衛門家と寺島伝兵衛家が交替で務め、旅籠10軒・店舗4軒・飯盛女(遊女)は置かれず、純然たる宿駅だったそうです。しかしこの宿場には大名の宿泊は無く、本陣には佐渡奉行や出張の役人が宿泊したと思われます。
その後天明3年の浅間山噴火や嘉永6年の大火で北牧宿は全滅。復興に2年以上を要しました。

対岸の渋川市南牧にはかつて、「入鉄砲と出女」を厳しく取り締まった、杢ヶ橋関所が田中博宅として残されています。関所は高崎藩の管轄で、目付1人、与力2人が2ヵ月交替で派遣され、地元から3人の定番が選ばれ、交代制で世襲して務めました。田中家はその1家です。