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  安中
あんなか
 中山道十五次之宿場町・安中藩板倉家3万石の城下町
 群馬県安中市安中3〜1

 構成:商家・町家・武家屋敷・郡役所 ■ 駐車場:武家屋敷はあり
 
 

徳川譜代筆頭の井伊直政は家康の関東入部にあたり、江戸北辺の押さえとして箕輪12万石(現箕郷町)に入封します。後に高崎へ城を移しますがこの安中も井伊領でした。慶長6年、井伊直政は関ヶ原の勲功により近江佐和山(彦根)15万石を与えられ、この安中領3万石も据え置かれて計18万石で佐和山へ移ります。直政は佐和山入封後まもなく没し、子の直勝が継いで彦根城を完成させ佐和山を「彦根」と改めまました。しかしこの直勝は病弱だった為、大坂の陣への参陣もかなわず、代わって弟直孝が参陣。直勝は彦根藩の相続が許されず、2代藩主は弟直孝が継ぐ事となり、直勝は一度なった藩主の籍を抹消され、安中3万石の別家を建てここに安中藩が成立します。
安中井伊家は上州の防衛と街道の警備を担うとともに、城下町や領内の中山道宿場町を整備していきました。安中城下に設けられた安中宿は前後の上野尻村・下野尻村・谷津村を同化し、宿場と街道集落が一体になった長い町並みを形成していきます。これら4つの町村を総称して「安中」もしくは「城下四町」と呼びました。そのため本来の宿場町である安中宿を”伝馬町”と呼ぶようになり、この名称は現在も残されています。
宿場の内容としては問屋を兼務した本陣1軒・脇本陣2軒・旅籠19軒とあまり大きくは無いですが、城下町の商家町のなかに宿場町の機能が置かれたといった方が正しいかもしれません。
安中2代藩主井伊直好の三河西尾移封後、替わって水野家が入りますが2代元知が発狂して妻に切りつけ改易。堀田正盛の三男堀田正俊が春日局のコネで諸侯に列して安中に入封。幕府内で大出世して下総古河へ。その後も譜代の重臣が度々入れ替わり、最後に板倉家2万石で明治を向かえます。

安中は武家屋敷で知られ、旧中山道筋にも広範囲に点在する形で伝統的な商家建築がいくつか残されていますが、宿場町を偲ばせるような旅籠建築などは見られませんでした。また伝統的な商家の殆ども総二階の土蔵造りで、おそらく明治期以降に建てられたものだと思います。安中二丁目から一丁目にかけて坂の上に比較的まとまって残されていました。