一路一会古い町並みと集落・甲信越>山梨>甲斐岩間
  甲斐岩間
かい いわま
 かつて駿州往還の宿場町・今は日本一のハンコの町
 山梨県西八代郡六郷町岩間 【山梨県西八代郡市川三郷町岩間】2005年合併

 構成:商家・町家・酒蔵・武家屋敷・土蔵 ■ 駐車場:なし
 
 
甲斐岩間を訪れて最初に驚かされたのが、通りの一画に展示された巨大なハンコである。そして町並みの右にも左にも印章店が並んでる。岩間は日本一のハンコの町を称するほど印章業が多い町なのですが、古くからのものではありませんでした。

かつての岩間は戦国期における甲駿往還沿いに形成されたの交通・商業の要衝で、やがて伝馬が置かれ宿場町として発展した町でした。岩間は甲斐武田家ではなく、配下の駿河城主穴川家の支配地域であり、甲府直前の宿としては市川大門宿がありましたが、穴川領内としては岩間が甲府直前の宿でした。
宿場町は江戸期に入ってからも引き継がれます。ところで富士川舟運が開かれてからの陸路である駿州往還のルートは複雑で、市川大門宿から直接岩間に至るルートだったものが、富士川最大の河岸である黒沢・鰍沢に口留番所が置かれると、市川大門宿から青柳宿を経由する新ルートとなり、駿州往還は鰍沢の砥坂から岩間に富士川を渡り、さらに岩間の岩崎から「岩崎の渡し」で対岸の西島宿へ至るジグザグコースとなりました。これを「両越(もろこし)の渡し」といいます。

江戸中期には近郷の商品経済の中心となり、周辺農村では農間稼ぎとして岩間足袋の製造が行われはじめます。岩間足袋は明治になると日清・日露戦争の軍需によって生産が拡大しピークを迎えますが、やがて福助や土屋などの新興大資本によって衰退していきます。そうしたなか甲州水晶を素材とする印章の技術は抜群だった岩間では、水晶加工から始まった印章業が、木判やゴム印を取り扱うようになり、行商によって全国的に販売網が築かれ名を広げたのです。