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  贄川
にえかわ
 中山道三十三次の宿場町
 長野県塩尻市贄川 【旧・長野県木曽郡楢川村贄川】2005年合併

構成:切妻平入り旅籠建築・贄川番所 駐車場:なし
 
 
贄川は奈良井川上流の河岸段丘上に形成された集落で中山道の江戸から33番目の宿場町。地名はこの地に温泉が湧いていた事から「熱川」を語源とする説や、諏訪社の神事に川魚を供進したことから贄川と呼ばれた説などがあります。

このあたりは南北朝時代から木曽北辺の守りとして関所が設けら、江戸時代に中山道が整備されると、木曽路北端の要地である贄川宿には木曽福島関所の副関としての贄川番所が置かれ、女改めと白木改めを中心に街道を取り締まっていました。この贄川番所は現在宿場の北端に復元されています。

中山道が整備されたのは慶長6年ですが、贄川が中山道の宿場町に指定されたのは慶長7年でした。関ヶ原の戦い後、江戸幕府主要街道整備の陣頭指揮を取った大久保長安は、始めこの贄川付近から東へ、牛首峠越えで三州街道・小野宿を経由するルート(小野新道)を開きました。しかし長安の死後に贄川宿・本山宿塩尻宿・塩尻峠のルートへと変更されます。
贄川宿の全長は4町から成り、万延元年の記録で家数は255戸・人口は1,092人。
本陣1軒・脇本陣1軒・問屋2軒・旅籠は25軒で、内訳は大8・中6・小11でした。
木曽渓谷の外れで、比較的農地に恵まれていた為か、半農半商で宿場を経営しており、天保の飢饉でも餓死者をほとんど出さなかったといいます。

贄川宿はたび重なる火災に遭い、最も新しい昭和5年の火災などによって宿場町の面影はほとんど失われていますが、それでも辛うじて数軒の稀少な建物が残されていました。
この贄川の大きな印象は、町のあちこちで湧き出る豊富な井戸水と、全国で3箇所しか残されていないという、稀少な「LETTER」ポストです。一見古い町並みのどこでも見る、赤い丸形ポストですが、多くは「POST」という表記です。これは初期に試作品として製造された稀少なものだそうで、贄川郵便局の前に現役で活躍中です。

宿場の北端に復元された贄川番所と中央本線
 
 
 
 
日本に3箇所しか残っていないと言われる「LETTER」ポスト