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わらび
 「戸田の渡し」と「双子織」で栄えた中山道二次之宿場町
 埼玉県蕨市中央・北町・錦町

構成:商家・町家・土蔵 ■駐車場:なし
 

東京にほど近い埼玉県南端部に位置し、川口市やさいたま市に囲まれた蕨市は、江戸時代に中山道の二番目の宿場町として栄えた町に始まります。
江戸日本橋を出発して最初の宿場町・板橋を過ぎると、荒川を舟で渡る「戸田の渡
し」を経て蕨宿に着きます。荒川には江戸防衛の為に橋は架けられませんでした。

この都心から電車で数駅の蕨市の旧中仙道沿いには、驚く事に埼玉県下でも最大規模の数で、往時を偲ばせる伝統的な家々が残されていました。

蕨というかわった地名については、さまざまな説があり、関東平野では薪用の樹木が少ないために「藁」で火を起こした事から藁火が転じて蕨となったもののほか、純粋に植物の名から名付けられたものなどがあります。

蕨は平安期ごろから見える関東平野の要衝で、室町期には1と6の日に市場が立ち宿駅の機能も有していたと言われ、足利氏一族の渋川義行がこの地に城を築いて支配していました。
江戸時代になり本格的に中山道が整備されはじめた慶長17年に、蕨は宿場町に指定されます。天和3年には、細くまがりくねった低規格の街道を改修し、今に続く直線的な道に変わりました。

宿場の規模は江戸近郊部では浦和宿や大宮宿を凌いで最大規模であり、家数は430軒で人口2,223人。本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋23軒、問屋場は1箇所あり
蕨宿の名主・問屋・本陣の3役は渋川氏の子孫である岡田家が兼務しました。
江戸時代中期以降には、 大規模な綿織物生産が主力産業になり、双子織のブランドは江戸の大丸、三越、白木屋などに直送されています。

蕨宿の特徴として、宿場の周囲には堀があり、堀に面した家では「はね橋」が架けられていました。夜間にはこのはね橋は上げられ、街道の木戸も閉じられる防備ぶりでした。堀や水路は用水の他、防火対策でもありましたが、それでも宿場は幾度もの大火に見舞われます。他の宿場町同様に、蕨宿も明治の鉄道建設に反対し、駅は町から離れた田畑の中に設けられました。現在のJR京浜東北線・蕨駅です。現在蕨宿に残る伝統的な家々は、関東出桁造りの昭和初期以降のものと思われるものも多く、時勢に乗り遅れても、なお蕨は江戸・東京の玄関口として物資が行き来し、大きな衰退は無かったものと思われます。


蕨宿の中央・北町が最も家並みが残る
蕨宿の南の入口・中央5町目の商家
蕨宿の北の外れ・錦町の商店